御神徳・御利益

諸願成就・知恵・学問・子授け・安産・延命など

南北朝時代、正平の頃(一三四六~)国留(今の国富)金山地区の旅伏山麓に居城があり、三澤康國という豪族が住んでいたという。(のちに時代知れずとなる)

その三澤康國の援助を受けて、当時、山陰地方で初めてという禅寺を拓いたのが三光国師「孤峯覚明禅師」であり、名称を大雲山康國寺として開山した。(なお安来の雲樹寺も同じ頃、開山した))

孤峯覚明(こほうかくみょう)禅師は、南北朝時代、鳥取伯耆の国で後醍醐天皇の行在所に招かれ、国師から戒法を賜わっているが、三光国師号は、後に、後村上天皇から賜ったものと伝わる。康國寺の寺域も、鎌倉・桃山、江戸時代の戦乱の世に度々戦火焼失、疫病・災害を繰り返し歴史の流れに翻弄変遷を重ねてきた。

そして、江戸天保年中(一八三〇~一八四四)の頃、国富中川の錦織家出身で七代住職となった拙庵禅師が寺域を拡大した。

七代住職拙庵は、江戸中期に活躍した臨済宗の中興の祖といわれる白隠禅師の下で、東奔西走の修行を積み、康國寺に帰ってからは近郷近在の壇信徒に慕われ、仏門に帰依し数々の功績を残した名僧で康国寺の中興の祖となった。

また、鐘楼堂は拙庵和尚が建て十代饀光和尚が山門を建てた。

現在の本堂や庫裡など大伽藍の建立は、六代環翁和尚・七代拙庵和尚・八代圓粋和尚の三代の努力を経て、九代蘂芳和尚が文政十年(一八二七)再建したと伝わる。本堂の伽藍は、丸柱や角柱を、富士山山麓の大欅を調達してきて材木の芯をはずし四つに割って柱材を造ったといういわれもある。また、山門に入ると右手に見える観音堂は、九代蘂芳和尚が建て、祀られている観音菩薩像は一説によると弘法大師作の洵薙(じゅんてい)菩薩といわれ以来秘仏とされて、公開されていない。

康國寺と言えば、何といっても枯山水の庭園である。

寺の古文書「納勝軒記」によると旅伏山麓一帯を八景の景勝地と詠んで称賛している拙庵和尚の感性からして、作庭に並々ならぬ関心を寄せていた拙庵によって計画が錬られた。

そして、十代饀光和尚が意匠設計を加え、江戸風の書院造りと共に「茶席博淵亭」を配し、自然山水や溜池を用いた「錦鏡池」に旅伏山を借景に取り入れ、江戸の築城師、沢玄丹一派が意匠を凝らし「出雲流枯山水」を考案し築庭したといわれる。この、江戸末期の自然借景が主な「枯山水庭園」は、文化遺産としても名高く全国的に注目されている。

縁起

正平二十四年(1369年)孤峰覚明禅師を開山とする。

国留(今の出雲市国富町)金山地区の旅伏山麓に居城があり、当地の豪族であった三澤康國公の寄進によって建立された。

康國寺の寺域も鎌倉・桃山、江戸時代の戦乱の世に度々戦火焼失、疫病、災害を繰り返し歴史の流れに翻弄変遷を重ねたが、江戸時代の天明年中(1781~1788年)中興の開山拙庵禅師によって寺域が拡大される。文政十年(1827年)には本堂をはじめとして、現在の伽藍が再建されたと伝わる。

特に庭園は七代拙庵禅師の計画のもと、十代饀光和尚が意匠設計を加え、天保元年(1830)から三年半の歳月をかけて、松平不昧公のお抱えの庭師沢玄丹により「康國寺庭園」が作庭された。禅宗特有の枯山水を基調に、旅伏山・貯水池(錦鏡池)を借景に自然山水を取り入れた美しい景観が特徴である。

御朱印

朱印料 金500円、護縁珠 金500円

それぞれの社寺の名前、教えに因む文字が書かれた「朱印(しゅいん)」を、神仏霊場巡拝の証として授与いたします。

また「護縁珠(ごえんじゅ)」なる木製の巡拝記念の珠もご用意しています。

護縁珠について
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護縁珠について

主な祭事

修正会 大晦日~正月3
山門大施餓鬼 7月下旬
除夜の鐘 12/31 2330

授与品

康國寺としての御朱印

宿泊施設

ホテルほり江
ひらたメイプルホテル

食事処

旧平田市街にお食事処あり

交通アクセス

【電車】
一畑電鉄「雲州平田」駅下車 タクシーで8分
一畑電鉄「旅伏」駅下車 徒歩20分

【車】
山陰自動車道 宍道インターより25分 斐川インターより20
出雲空港より20分

【駐車場】
大型バス1台 普通車約30

康國寺

〒691-0011 島根県出雲市国富町1301

TEL:0853-62-2213


【参拝受付時間】9:00 – 17:00
【庭 園 観 覧 料】500円

【SNS】
Instagram:@koukoku.daiun

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